フル百回楽走会、この30年を省みて
※本記事はフル百回楽走会創立30周年記念誌(2018年発行)からの転載です
事務局長 No.7 吉野孝敏
* 走りのキッカケ(遅い貴方が、主役です)*
私の走り始めのキッカケは、ご多分にもれず「減量と健康維持」でした。1976年5月に34歳で結婚し、168cm・58kgだった体重が、3年後の37歳の時に73kgに増え、仕事や趣味(サボテン・さつきなど)を行うのに支障がでたからです。1979年に職場の友人に誘われて第1回丹沢湖マラソンの5kmに参加したのが、始まりでした。1980年1月元旦に地元の金田地区の第4回金田地区元旦マラソン大会の3. 6kmの部に参加したところから、走行距離の記録を始めました。2012年末で50, 000kmを超えましたが、 この年1980年に職場に「高砂楽走会」を立ち上げました。そして、この年の12月の会社の仕事納めの行事「第13回職場対抗構内駅伝」(5区=構内7周=6.3km)に「山田敬蔵」さんが、招待参加され、終了後に参加者と会食し、交流を深める事が出来ました。
この時に山田さんから頂いた言葉「スローイズビューテイフル」(遅い事は素晴らしい事=遅い貴方が主役です)が、私の走る基本になりました。今でもこの基本で走っています。前述の金田地区元旦マラソン大会は、20年連続で参加、21年目に骨折で連続が切れ、34年間で33回完走しています。いつもラストを走っていますが、40回参加が当面の目標なっています。そしてフルマラソンの出会いは、1981年のランナーズツァーの第9回ホノルルマラソンの完走でした。
* フル百回楽走会 *
フル百との出会いは、1987年12月号(?)に「フルマラソンが好きな人集まれ=フルマラソン会」の会員募集が掲載されていました。即入会を考えましたが、区切りよく1988年1月元旦に前澤会長(当時)に電話を入れて入会を申し込みました。その電話での話しの中で「私の目標=60歳定年60回フル完走のエイジマラソン(23年計画)」を聴いて、前澤氏が目標をl00回にしたらとの話になり、ついでに会名も「フル百回楽走会」に改名すると言われ1ケ月後の3月号会報で、フル百回楽走会になっていました。この時15名の会員でした。私は、7人目の入会者でした。
生涯フルマラソン100回完走を目指す会になり、会員がドンドン増えました。どんな小さな大会でも、時間オーバーでもフルの完走は、各自の自己申告でカウントする現在の「神奈川方式」が、加齢してもフルを走れる要素があり、皆さんに受け入れられました。会が全国的であり、会員同士の練習会や交流会ができにくいことから、全国のフルマラソン大会が、合同練習であり交流の場になりました。この当時は、フルマラソン完走は、年1回が普通の時代でした。ですからフル100回完走は、「夢の生涯目標」でした。2017年、30周年を経過し、多くに手作り大会が開催され今は、5年で100回完走の「実現しやすい熟年ランナーの目標に変わりました;
会が2つになった経緯
会員が200名を越えた1994年4月に前澤会長が、突然「フル完走回数のカウント」を「グローバル大会や小さな大会、距離不足の大会等」は、カウントから除く。又「大会が決めた制限時間オーバーはカウントしない等」と言う「新しい基準」を会員に押し付け、「反対する人は、会を辞めなさい」との乱暴な運営を行いました。これが会報の「80号異変」でした。
これに対して、現在の「神奈川の会」に残った会員は、歳をとっても小さな大会でも制限時間オーバーでも走れぱ「カウント」出来る創立当時の「カウント方式」を踏襲し、東京駅の「銀の鈴」の下に集まった8名によって正常化委員会が開催され、10月に総会を開催し、会則と竹田会長以下役員を選出して、趣味の会の団体運営がスタートしました。
前澤前会長については、気持ちがクルクル変わる「朝礼暮改」の「自己中心主義」の方ですが、好奇心旺盛で行動力抜群で、「末っ子のいたずらっ子」的で、頭に来るものの「憎めない」側面を持っていました。そんな彼に2つの感謝を送ります。それは、まず「フル百回楽走会」を作ってくれた事。2つ目は、皮肉な事に乱暴な運営で「会を2つにしてくれた事」です。それまでのフル百は、単にフルを沢山走る個別の集団でしたが、強力な前澤会長に対抗するために「神奈川の会」を結束させ、交流を深める素地を造るキッカケを作ってくれた事です。この2つの事から出発し、当時は嫌な事もありましたが、当時の竹田会長を初め歴代役員の方々や会員各自のご協力と努力が実を結び、今日の楽しい「神奈川の会」として30周年を迎えられたものと思います。その間、1989年から足掛け30年間、事務局長をつつがなく務めさせて頂きました事を会員の皆様に厚く御礼申しあげます。本当にありがとうございました。
1994年以降の項目別の感想
(1)完走証やグッズの作成
10回完走証は、100回完走まで10年以上を必要としましたので、2-3年で10回を目途に会員の記録の把握と会への集中の役割として、必要でした。又、大会で会員同志が確認できるように赤いリボンを作り、全員に配布して走る時に肩に付けて走りました。次にピンクの法被を作り、希望者を募りましたが、少なく、100回完走者が少ないので達成者のプレゼントとしましたが、 数人でした。 1994年以降,会が2つになり、神奈川の会は、区別するために「ピンクのリボン」を作り、ピンクのキャップが出来る迄、使用しました。次にユニホームとキャップを作り、さらにTシャツを作りました。法被については、「プ口野球の名球会のブレザー」に対して、フル百の100回完走者のプレザー(ピンクの法被)になぞらえました。フル百のピンクの法被を「フル100回完走のシンボル」とした事。100回毎の達成者にメダル、トロフイ、レリーフなどが、仲間意識の高揚や各種の目標に、こだわる意識の高揚に大いに役立ったと思います。
(2)定期総会について(1994年から24回開催)
2つに別れる前は、会則もなく前澤会長の個人的な会でしたが、会則と役員が選出され、一般的な趣味の会の団体運営が曲がりなりにも進み、第1回から24回まで、各地での開催を進め、定期総会は、関東(神奈川・東京・群馬)、関西(兵庫・大阪)、沖縄(那覇)、九州(宮崎・大分)、北海道(旭川)、東海(名古屋)、北越信越(富山・新潟)、東北(宮城・青森・秋田)、四国(徳島)、中国(広島・山口)と日本全国を回廻りました。2000年に計画したニューョーク総会が、9:11同時多発テロで中止になったのが、これからの課題でしたが、以来13年、2014年遂に初の海外ホノルル総会の開催する事が出来ました。2018年には、日本の南方、久米島総会の予定です。
(3)合同祝賀会について(1992年から49回開催)
初めは、100回達成者が少なく、個別に東京祝賀会で行いましたが、各地に月例フルマラソン大会が出来、その他のメジャー大会も制限時間が長くなり、「100回が夢の目標」から、格好な中高年の実現可能な目標に変化し、大量の達成者が出現し、年2回の早春と七タ合同祝賀会を開催する状況になり、祝賀者も100回だけでなく、200回→1700回又、国盗りマラソン等対象者が増え、より盛大になりました。49回の祝賀対象者は、延べで671名(祝賀会出席=504名)、 祝賀会参加者は約2, 700名になりました。早春と七タの2回の合同祝賀会は、44回開催し、 祝賀対象者655名(平均15名)、出席488名(平均11名)で出席率75%、祝賀会全体参加は2542名で1回平均58名の参加となっています。年2回の合同祝賀会が活きています。2005年2月11日の小島義一氏フル1000回完走スペシャル祝賀会は、大会と祝賀会の延べ参加者数で丁度100名が参加しました。 フル100にふさわしい参加者でしたが、2013年8月に迫田法子さんが、2人目の1, 000回達成し祝賀会を開催しましたが、以後2014年に渡漫敏子さんと渡辺富夫さん、2016年に吉藤尚さん、竹内弥富さんと続けて1,000回を達成され、其々の1000回祝賀会は、開催が難しくなり、1月早春と7月七タの2つの合同祝賀会で一般の100回毎の達成者と一緒にお祝いをする形にしました。
(4)海外マラソンツアーについて(2013年5月まで38回=848名参加)
会が2つになる前の1991年「第9回アテネマラソン」が、高砂楽走会と共催で第1回目の海外ツァーを実施、以来38回(22ケ国)を行い、中でも「ソウル国際マラソン」は、ソウルマラソンクラブ の朴会長との交流があり10回の多きを数えました。海外は、夫々に良さがありますが、特に印象の強いのは、ホノルル、アテネ、ボストン、メドック、万里の長城、エジプトですが、USAのチャック開催のオカラマラソンでは、日米の会員の始めての米国での交流も印象的でした。 2004年以降は、2回目のアテネ、2007年2000mの高地メキシコ、2008年韓国の朴会長の最後の大会、ヨーロッパのフランクフルト・プラハ・バルセロナと続き、2011年カナダ(トロント),2012年は、ついにロシアも走り、2013年は、北欧のデンマークを走りましたが、2014年にはホノルルを初めての海外総会を兼ねて参加、2015年には新しくなった万里の長城、2016年にはポートランド大会、そして2017年は伝説の怪獣が棲むと言われるネス湖マラソンに参加しました。それぞれにコダワリの大会にツァーを組んできました。2018年は、世界一幸せな国ブータン大会、2019年は、ローママラソンで最後のツァーになるかも知れません? あと何回何歳まで、皆さんとご一緒できるのだろうか?
(5) 47都道府県国盗りマラソン企画(16回企画=20大会10県403名参加)
1997年12月20日-21日の連走で、愛媛と島根の国盗りマラソンを当時の竹田会長の初達成のために企画し、島根県で当時の竹田会長が、初めて国盗り達成をなし遂げました。以後24回の大会開催で、現在37名が達成しましたが、この国盗り大会がなければ、達成できませんでした。会主催の国盗り大会は、そんな大会になっています。100回-200回に国盗りが、コダワリの目標になって来ています。USAには、51州国盗りマラソンが有りますが、USA会員全員が達成しています。いずれの国も目指すところは、同じようです。2012年より、国盗りをしたい会員が主催して、会が後援して会報で募集し開催するスタイルに変更して、すでに8大会開催しています。 迫田法子さんと渡邊源治さんが3周目、木村さんが2周目を達成しました。かつては、達成者が少ないので、特別表彰としていましたが、多くの会員が達成する様になり、100回達成者と同様の祝賀者にして対応する様に会則で決定しました。
(6)世界メガマラソンランキングの発表について
会のメガマラソンランキングは、毎年会報で発表していましたが,1998年頃にヨーロッパの大会でヨーロッパのメガマラソンランキングを入手し、会のランキングと合わせて、会独自の世界ランキングを作り、会報で発表しました。1999年に韓国のソウルマラソン大会に参加した時、ソウルマラソンクラブから韓国の100マラソンクラブが誕生し、我々の海外ピンクツァーが目立ち、ヨーロッパ地方の方々も、100マラソンクラブが2000年以降続々と誕生し、海外のメガマラソンリストの入手が楽になりました。2006年に能瀬眞一さんが入会、その語学力と情報収集能力を生かされて、メガマラソンランキング作成を協力して頂き、2013年以降は、能瀬さんを中心に会として作成しました。
そのお蔭で、会が作る世界マガマラソンランキングの正確さが世界で認知されるに至り、海外も会の発表形式に類似した形になり、海外から情報が入るようになりました。1998年頃は、最高が500回代で、100回以上でのリストでしたが、現在は300回以上でも600人を超えました。海外でも300回以上走ってリスト入りを目指して走る方が増えたといえるかも知れません。
(7)コダワリの目標について
会の成り立ちは、生涯フルマラソンl00回完走でしたが、現在は、日本全国各地に制限6時間以上の完走しやすい大会が100大会以上に上り、会員の手作り大会が年間300回以上開催される中で、夢の目標 l00回完走が、中高年の達成出来そうな格好の目標と成り、今は、100回を何回出来るか、国盗りマラソン、100種大会、七大陸、海外100回等など「コダワリの目標」が広がっています。第1回大会100回、同一大会連続完走、月例大会100回完走などもあると思います。25周年迄は、未達成の海外100回は、國分靖さんが達成、第1回大会の100回は、迫田さんと木村さんが達成されました。カップルペア完走は、最初は渡辺夫妻の専属で200回迄行き以後は、西部夫妻が何と300回・400回に記録を伸ばしました。オリンピック開催国の大会(都市も含め)等もありそうですね。月間連続完走は、原沢勲さんお259ケ月連続完走ですが、木村敬さんが227ケ月を迫っていています。あと3年更新なるか?
まだまだ新しいコダワリの目標を創造し、探しだし持つ事が、生き生き人生の基本だと思います。 好奇心を満たし「未知との遭遇」が、人生に彩を与えてくれます。大いに旅マラソンでフルマラソンを遊び道具に「旅とグルメと友情を」を楽しみましょう。
(7)グローバル大会と月例フルマラソン大会&手作り大会
フル百の成長には、グローバル協会の橋本会長のご協力で大いに進み、感謝をしております。月例フルマラソンの始まりは、1989年のGB皇居であり、フル百とグローバルがあって成り立ちました。グローバル皇居大会は、月1回の5-20km位の月例大会で、フルは年1回開催されていましたが、フル百の登場で、月例フル、年30回、年50回と増え、1997年以降は、年100回を越え、「皇居が交流の場」となり、100回達成にも大きな役割を果たしました。この時期には、神保町の「さくらホテル」と土日の宿泊費を安くする専属契約を結び、宮城や富山・新潟等から参加する会員の便宜を図りました。
小島氏の1000回完走の50%は、グローバル大会であり、1997年以降は、4時間以上でゆっくり走ったから、1000回に届いたと思います。「遅い事は、素晴らしい事です」が、生きたのです。BG皇居大会は、2007年8月にグローバル橋本会長が、加齢によりGB皇居大会の開催を止められ、中村正巳会員が、「皇居竹橋マラソン大会」として同9月から開始し、河原さんに引き継ぎ、現在300回を超えました。 1998年以降は、会員が各地に年一大会、旬例大会、月例大会と拡大し、沢山のl00回達成者を作り出しました。フル百の法被に袖を通した会員は、290名を越えました。感慨無量です。会員が作った大会は、30年で現在約50種大会が継続開催され、年間300回以上開催しています。素晴らしいことです。月2回の皇居竹橋・、年50回位の不定期開催のスマイル大会 新潟島大会&信濃川大会、2010-2011年にかけて、渡辺富夫氏の101連走世界新達成の副産物で、週例のフルマラソン大会「湘南ウィークリー大会」が、2011年1月に誕生しました。2002年に私が定年を迎え、パソコンを導入して、記録や資料を入カできるように半年パソコン教室に通いました。この年以降に、いろいろな基準をまとめました。「手作り大会の基準」3人以上のエントリーで成立が、沢山の手作り大会の開催を促し、地元開催で経費がかからず、100回完走達成の早期化と会員や走友との交流を深める好結果をもたらしました。皆さん、世話好きの会員が多い事の証明です。会が長続きできる要素であると思います。これからも遊び道具の「足」(足を支える健康)を使える大会を開催しましょう。
(8)「コダワリ・チャレンジ・ユーモア」の三精神で人生を楽しもう!
コダワリは、目標であり、生き方です。チャレンジは実践であり、行動です。そしてユーモアは、ゆとりであり、遊び心です。この三精神が私達のフルマラソンに彩を着けてくれると同時に人生を生き生きさせてくれる基本だと思います。「遊びは、文化であり、人生」です。
フルマラソンは、「我々の遊び」であり、市民の文化です。ゆっくり走る市民文化を発展させ、大いに人生を楽しみましょう。「遅い人」は、自分より速い方には「幸せの優越感を与え」、遅い人には「越えられそうな目標になり、希望を与えています」。これが、「遅い貴方が主役です」の「意義」だと思います。75歳の遅い私も主役になれます。これからも歳相応に楽しく頑張りますので、お友達として、よろしくお付き合いをお願い致します。
最後に、この会を作った初代前深和明会長(2012年没)、千葉の会の初代折田兼隆会長 (2010年没)、そして、我が会の3代目佐藤潤会長(2011年没)も既に他界され、他の会員の方々を含め30年の間に約25名の方々が、他界されました。又,退会(休会)されて他界された方は、更に多くの方々が居られると思います。創立30周年に当たり、ここに慎んでご冥福をお祈り申し上げます。 合掌!
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